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座ってもいいですか?

​杏子 / Momoko

キャンバスに油彩、紙

 私は椅子に変身してしまう女の子のキャラクターの絵を描きました。
女の子の名前は「ひすい」です。ずっと描いていた漫画がなぜか描けなくなり、「ひすい」はそんな形にできないでいるお話の一つの主人公です。
 言葉にしようとすると、言葉ではなくなぜか身体が椅子に変身してしまう様子を描きました。物心つくころから私は人見知りが激しい性格でした。吃音症のようなところもあり人前で話そうとすると詰まったり音を繰り返してしまうことが常です。今、この瞬間に思い浮かんだ言葉そのまま、どうして言えないのだろう、受け取ってもらえないのだろう、誤解されるのだろうと歯痒さでいっぱいになったりしていたら、椅子に変身してしまう女の子を思いつきました。
 椅子は家具の一つであって物です。家具は誰かに運ばれない限り家具自身はどこへも行けれません。私の思い通りの言葉が届けられない時そこから動けず置き去りにされるような気持ちを抱きました。私の言葉は言葉ではなくなってしまい椅子になってしまったとも言えるのではないかと思いました。しかし「椅子になった」というのはあくまで「ひすい」の自我によるものでしかありません。なぜ椅子に変身してしまうのか「ひすい」自身分かっていませんし椅子に変身してしまうことはおかしいことだとも思っていますが、他人から見た「ひすい」は椅子に見えている訳ではなく「別の何か」として見られている、つまり主体と客体とで解釈の違いが起きていると考えています。

 

 なぜ、人生は思い通りに生きられないのでしょうか。どうしようもなく踊らされてしまうのでしょうか。どちらかと言えば分かりやすいものより意味が分からないものや、なぜかわからないけどそうとしか言いようがないことや、不思議なものが好きで、なぜなのだろうと考えることが好きです。一方で原因の分からない障害に遭った時はそのことに取り憑かれ不安が募り怖ろしさで頭がいっぱいになってそれ以上考えられなくなってしまいます。「本当」だと呼ばれるものの類を私は疑いがちです。身体の中の内臓は命令も出していないのにどうして動いているのだろうと驚いたことがあります。なぜうまく言葉にできないのか、なぜ漫画が描けなくなったのか、分かりたいですがまだ分かりません。
 描きたくてもずっと描けなくて辛くて悲しくて誰かに分かってほしい、私を見つけてほしい、そんな独りよがりばっかりなまま、この絵も無理やり完成させてしまったと思います。
 私は私であることを受け止められずに生きてきました。けれど例えば、独りよがりなまま生きているからこそ分かることがあるのではないでしょうか。見ることができないはずの椅子に変身してしまった「誰か」が居るのだとすれば、と考えます。そんな「誰か」に今度は私が気づいてあげられるのではないでしょうか。いえ、気づきたいです。「座ってもいいですか?」なんて、冗談を「あなた」に言うために。

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