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花
小林万凜 / KOBAYASHI Marin
キャンバスに油彩、アクリル、モデリングペースト、メディウム、ホイルフレーク
久方ぶりに絵を描いた。
正しくは『描けた』かもしれない。
元々、わたしにとっての絵は考えて描くものではないし、ましてや何かテーマを決めて描いたことなど無いに等しい。
しかし、考えて描かなければいけない、
表現するもの全てに意味をもたらさなければいけないといつしか勝手に思うようになってしまっていた。
そんな考え方に囚われ、永く描けない期間があった。
絵が嫌いになりそうだった。絵は自分にとって特別で、手放したくないものなのに、嫌いになりそうでショックだった。
でもある日、こう思うようになった。
そもそも考えて描かなければいけないのか?考えないことは悪なのか?
考えないという考え方もありだよな?
そうしたら、心が解放されたように楽になった。
自分主体で思いのままに、のびのびと表現すればよいと思うことができた時、
久しぶりに心が「描きたい」という気持ちになった。
表現には型がないべきだと思う。
・・・と言って気づいた。
「べき」という言葉自体、型にはまっているのではないだろうか。
たったさっき、自分主体で思いのままに、のびのびと表現すればよいと思うことができた時、
久しぶりに心が「描きたい」という気持ちになった。
と書いたが、この気持ちも一過性のものなのかもしれない。
絵を描くという行為はわたしにとって特別なことだ。
好きだからこそ手放したくない、
知りたいけれど深く知りすぎて嫌いになりたくない、適度な距離が良い。
嫌いになってしまって傷つきたくない、失いたくない、手放したくない、
これを取り上げたら空っぽになってしまうのではという恐怖。
この気持ちはよく知っている。依存心と弱さが露呈した感情。
確かに今、心から「本当にそう思う」と確信を持ったこの気持ちを、
一過性のものかもしれない、とふと思ってしまう。
わたしは気づいてしまった。
自分の絵に対する向き合い方は
人に対する向き合い方とまったく一緒だということに。
わたしは何も、だれも、手放しでは向き合うことができない哀れな人間なのだろうか。
わたしはこれからどこへ向かうのだろうか。
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