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それ・ぞれ

​紋羽是定 / MONBA Koresada

ガリレオ温度計(自作)、ヒーター、扇風機など

 2011年。3月10日。地震前日。僕は石巻に住んでいる友人を訪ねるつもりであった。
実家の車で、節約の為、下道でゆっくりと向かうその道中、突如大量の鼻水やノドのかゆみに襲われた。後にわかるが、初めてなった花粉症であった。
友人には悪いと思いながらも連絡を入れ、自宅へと帰った。それが最後の連絡になった。

 

この経験は一体何だったんだろうか。
「運」「運命」「神意」「因果」「教訓」
どれもしっくりこない。ただ、それがあるということ。
当てはまるものを探しているし、探さずにはいられないでいる。

 

しっくりする言葉がないので、仮に「それ」と呼ぶことにする。
 

「それ」に巻き込まれたとき、何が生死を分けるのか。
僕と友人は結局何が違ったのだろうか。
あれからずっと考えているし、結局ぐるぐると同じところを回ってばかりいる。

 

 無理やり、1つ仮説を立てみる。
 

 仮説:生死を分けるのは偏りである。


生と死、それぞれ感じ取れる量があるとして、バランスよく両方を同じだけ感じ取るのではなく、どうしても偏る。
 

生ばかりを感じ取っていれば、命の危険を感じ取ることが出来ない。
危険な経験をしても、頭に残らなかったり、運が良かったで済ませたりする。起きた事を他人事としてしか捉えられず、「いざというとき」を感じ取れない。

 

死ばかりを感じ取っていれば、目の前の出来事や日々のやるべきことに意識が向かわない。
度が過ぎれば、自死にすら繋がってしまうかもしれない。

 

生と死、どちらかに過度に偏ると、その方向に突っ切ってしまう。
もしくはその逆方向に揺り戻されてしまう。

 

過度に偏らせることなく、一方で、ちょうど半々にもならない生死の偏りを
日々の生活の中でそれでも意識して保とうとすることが、大切なのではないだろうか。
偏りを意識することで、ようやく「それ」と向き合って生きられるのではないだろうか。

 

 僕は、ヒーターや扇風機を使って、水温を自身の体温と揃え続ける。
これは個人的な偏りの調整でもあり、「々」として「それ」に対して出来ることだとも思うからだ。

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