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現実と虚構の狭間で踊る

​三浦春雨 / MIURA Harusame

墨、顔彩、水干・岩絵具/和紙

 作品にのめり込んだことがあった。四六時中そのことを考え、グッズを収集し、部屋をキャラクターで埋め虚構の世界に埋没した。周りにその作品が大好きだと宣伝し、作品に依存しすぎて周りが見えなくなったあまり、作品やグッズを没収されることもあった。興奮して激怒したこともある。現実と虚構の見境いがつかなくなり、なんとしても取り返そうと暴力を振るったこともあっただろう。
そのように、作品に惹かれるあまり虚構の世界に浸ったことは程度の差はあれ、誰もが経験あることだろう。では、現実と虚構を分かつものは何だろうか?

 

西洋美術史では、それは赤いカーテンとして描かれ、レンブラントの聖家族など宗教画に見ることができる。中でもマニエリスムの画家パルミジャニーノの長い首の聖母では、赤いカーテンで前景と後景が区切られ、前景では、身体の部位が引き伸ばされた聖母マリアが画面中央に大きく鮮明に描かれ、膝にイエスをかかえて聖書の物語を演じ、後景では線遠近法で大地にそびえる列柱と預言者が異世界として褐色で描かれている。カーテンは現実と、虚構のキリスト教の物語を分かつとともに、同一平面につなげる役割を担っていた。
 

現代では、赤いカーテンがサブカルチャーで出現する。魔神英雄伝ワタルはアニメの冒頭で、主人公自ら、これまでのあらすじをナレーションしてこれからの意気込みを語る。時には、体育館の壇上のような場所でカーテンが左右に開かれ、中央のモニター画面を写し出し、上から落ちてきたワタルたちがあらすじを語るシーンも描かれた。表彰授与やお遊戯の舞台として使用される、地面から1メートルほど高い場所にある体育館の壇上は、私が公に、あるいは一時的に何かに変身して、異なる時間軸を生きる特別な場所だ。現実と虚構を遮断し共有させるカーテンは、体育館壇上に組み込まれ、現実と虚構をつないだ。その後の他作品では、赤いカーテンが消え、壇上の上のモニター画面が四角い画面に変化した。それは、永遠や豊穣の意味を持つ『葡萄』のつる草で表され、現実と虚構の渡し船となった。
 

ワタル作品の体育館壇上では、観者からのお便りや提案を紹介し、それに答えるシーンもあり、その姿は、近松門左衛門が唱えた、現実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるという虚実皮膜の探求に見える。虚構から情報を受け取り、リアクションを虚構に投じて次の虚構づくりに参加するのは楽しい。まるで、現実にいながらにして虚構に片足を踏み込んでいる錯覚に酔いしれるものだ。
しかし、虚構の力が増す一方で、現実と虚構の狭間にある皮膚の免疫能力が低下し、アレルギー反応を起こしているのを実感する。その時、体育館壇上はどんな景色が広がり、カーテンはどうなっているのだろう。

 

作品の虚実皮膜の本来の喜びを再確認したい。
皆、現実に身体を動かし、虚構が放つ言葉や身振り・手振りを楽しんだことがあるだろう。そのとき、観者は独自に虚構を咀嚼し2次創作をその意識の下の皮膚で作り出す。それは時に遊泳し、踊り、飼養となっているはず。
ワタルのエンディングソング『a・chi-a・chiアドベンチャー』はこう歌っている。『昨日を振り向くより明日の国へ進みましょう。あなたは優しいひと、そこが誰より素敵なの』。

 

僕たちは皆、終わりなき時の物語を生きている。未来に虚構の喜びを明るく、楽しく、歌い上げたい。
 

カーテンが揺れている。

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